オステオパシーの歴史

日本の歴史

 


1900年   Dr.NemotoがASOに研究、勉強と学校から単位を貰うことをお願いし、ASOから受け入れられた。と記録されている。

 

1910年ごろから日本に伝わったと考えられる。

1910年   10月20日、発行、山田式整體術講義録、山田信一が、芝崎MDという方から施術をうけ、これがオステオパシーと聞き、米国から本など取り寄せ、他の療法と組み合わせた。と彼の本に書かれています。

 

1947年   古賀正秀、福岡県で療術の既得権の届出の時、全国でただひとりオステオパシーで登録。

 

1950年代初めに身体均整協会、亀井進、日本オステオパシー協会を発足。

 

1965年   中山清、ニューヨークで開かれた万博博覧会に日本代表として参加し武道医学を披露。

米国AOAの会長、Dr.アッカーマンの要請もあり、フィラデルフィアで数ヶ月にわたる技術交流をしています。

 

1967年 古賀正秀、関節遊び運動理論をオステオパシー学説に於いて古賀式定義を発表

 

1969年 11月、京都でおこなわれた国際疼痛医学界、日・米・加 参加の中古賀正秀、脊椎関節の古賀式割り出し法を発表。

 

1971年 6月9日、全日本オステオパシー協会設立、協会名誉会長に古賀正秀、が推薦決定される。
同年、全日本オステオパシー協会、10月31日、日・加国際セミナーを名古屋で行う。ハロルド サイタ D,O, 来日。
この時Dr.サイタが、ストレイン アンド カウンターストレインの原型となるSpontaneous release by positioningをいち早く日本で発表


1974年 3月、全日本オステオパシー協会、京都支部を結成。のちの、関西オステオパシー協会となる。

 

1975年 アラン・スタッダード D,O, 来日、東京と大阪で講習会を開催。

 

1976年 古賀正秀、と協会員達、イギリス、ロンドン カレッジ オステオパシー メディスンを視察。
アラン スタッダートに表敬訪問。

 

1979年 古賀正秀と協会員、米国カンザスシティー・オステオパシー大学を視察

 

1984年 8月、古賀正秀と協会員、ポモナ オステオパシー大学を視察。この時、学長や教授陣から指導を受ける。そして国際的に有名でありDr.サザーランド,直系の弟子のDr.フライマンからも教えを受ける

同年、9月 古賀正秀、カークスビル オステオパシー医科大学へ初訪問。

 

1985年 古賀正秀、オステオパシーの出版物の翻訳権をカークスビル オステオパシー医科から取得。

同年、のちの日本オステオパシー学会がPAACのオステオパシー研究部門として発足

 

1987年 のちのオステオパシー学会が、英国のDr.ドリーン ブルックス D,O,による頭蓋オステオパシーセミナーを開催

同じく同団体、米国アプレジャーインスティチュートと交流を始める

 

1998年 5月にPAACオステオパシー研究部門が日本で初めて頭蓋仙骨療法のセミナーをはじめる。


1989年 1月11日、古賀正秀、カークスビル オステオパシー医科大学から名誉同窓会員に推挙され同窓会員となる。

同年、8月、カークスビル オステオパシー医科大学の学長と2名の教授を招き、国際セミナーを開く。

フレッド テニング Phd 学長
マイケル クチェラ D,O, FAAO  教授
ジェラルド スラッタリーD,O,Phd
彼はDr.フルフォードの後継者といわれており、米国AAOでDr.フルフォードと共に、彼のコースを一緒に教えていました。

Dr.フルフォードは古賀正秀と交流があり。心臓の問題さえなければ日本に来日する予定でした。

いのちの輝きの本の中にある。オステオパシーの源流は日本にあるという、Dr.フルフォードの発言は古賀正秀のことを言っていたと思います。
彼らはもう他界してしまいましたが、どんなやりとりをし、指導者として何を伝えようとしてたのでしょうか?

 

1990年 9月、日本オステオパシー学会、発足
同年、8月に同学会が、内臓マニプレーションで有名なフランスのオステオパスのジャンピエール・バラルD,O,を日本に初めて招待しセミナーを開催

 

1991年 11月、古賀正秀、カークスビル オステオパシー医科大学から手技部教授格を授与される。

 

1990年 全日本オステオパシー協会、カークスビル オステオパシー医科大学で定期的に教育プログラムはじる。

 

2001まで、1990年、1992年、1993年、1994年、1995年、1996年、1997年、1999年、2001年を最後に八回を数える。

 

1991年 日本オステオパシー学会がストレイン アンド カウンターストレインの創始者ローレンス ジョーズ D,O,FAAOを招待しセミナーを開催


1992年 10月、古賀正秀、カークスビル オステオパシー医科大学100年記念に出席

日本オステオパシー学会はストレイン アンド カウンターストの創始者ローレンス ジョーズD,O, FAAOによるインストラクター試験を行った


1993年 3月、全日本オステオパシー協会、高木元会長、AAO学会、初参加、日本業界として初めての参加。

同年、京都にて関西オステオパシー協会が発足される


1996年 1月16日、午後8時30分、古賀正秀、肺炎のため83歳で他界

 

1997年 7月、日本オステオパシー連合 オステオパシーの3団体から結成される。全日本オステオパシー協会、日本オステオパシー学会、関西オステオパシー協会

同年 日本オステオパシー連合の会員一団が米国、サンディエゴでDr.フライマンによる、ベーシック クラニアル コースを受講

 

1998年 日本オステオパシー連合による登録認可制度はじまる。MRO(J)、(member of registered of osteopath (Japan)

日本オステオパシー学会がオーソパシック メディスン(現FDM)の創始者ステファンティパルドス D,O,を招待しセミナーを開催

 

2000年 7月、全日本オステオパシー協会、日本業界として初めて英国にてヨーロピアン スクール オブ オステオパシーの主催する国際会議に、橋本、石蔵、山本が初めて参加

この時クラシカルオステオパシーの大家であり、英国オステオパシー界の重鎮、ジョン ワーナム、表敬訪問と山本が交渉し日本人にたいしてコースの受け入れが決まる。

 

2001年 3月、英国、ジョン ワーナム カレッジ オブ オステオパシーで大学院コース、全日本オステオパシー協会、4人の参加、橋本、石蔵、山本、松澤

同年、山本逸二がトーマス シェーバー D,O,にバイオダイナミクスのコースを教えられるかどうか交渉、当時トーマス シェーバー D,O,(彼はDr.Jealous から認定を最初に受けたインストラクターではありません。)はバイオダイナミクスを日本国内、海外でも教えた経験はなく、バイオダイナミクスの創始者、ジェームス ジェラス D,O,に相談し日本で教えることの許可がおりる。翌年、2002年より日本でコースが始まることが決まる

 

2002年 7月、全日本オステオパシー協会がスティル テクニックのリチャード バンバスカークD,O,PhdFAAOを招待し国際セミナーを開催

同年、バイオダイナミクスのコースを下村と山本がトーマス シェーバー D,O,に依頼し日本で初めてコースが始まる

同年、山本逸二がカナダのフィリップ デュエル D,O,が主催するカナダのオステオパシー学会に、日本人として初めて出席、
同年、カナダでアンソニー チラ D,O, FAAO がインストラクターとして生徒にどのように教えるか、のコースを行う。そのコースに山本逸二、出席

 

2003年 山本逸二が日本人として初めて、バイオダイナミクスの創始者、ジェームス ジェラス D,O,の主催するバイオベーシックを米国、ニューハンプシャー州、フランコニアのコースを受講

同年、山本逸二が日本人として初めてバイオダイナミクスのコースをニューハンプシャー州、サンセットヒルハウスで受講

 

2004年 11月、全日本オステオパシー協会会員、四名が大学院コースを修了、橋本、山本、松澤、堀越

同年、7月、スティル テクニック 中級 リチャード バンバスカーク D,O, Phd FAAO

同年、日本オステオパシー連合、世界オステオパシー保険機構(WOHO)の会議に出席

 

2005年 日本オステオパシー学会関西支部がスタートする

同年、日本オステオパシーメディスン協会が発足


2006年 2月、全日本オステオパシー学院、開校

同年、同じく2月に日本オステオパシープロフェッショナル協会を設立する

2006年 6月、日本クラシカルオステオパシー協会、設立、会長に春山勝、副会長に松澤和則

同年、7月に同協会が、ジョン ワーナム オステオパシー大学と国際提携契約を結んだ

 

2007年 アトラス オステオパシー 学院、森田博也 D,O, 設立

同年、日本オステオパシープロフェッショナル協会がカナダ・モントリオールにあるオステオパシー大学と業務提携をする。

同年、バイオダイナミクスの創始者、ジェームス ジェラス D,O,が日本でフェーズ1ー3、フェーズ4ー6の復習コースを日本で開催、彼は初めての日本来日となる

 

2008年 日本プロフェッショナルオステオパシー協会がメカニカルリンクに関しての教育の独占権を得る

 

2009年 8月、全日本オステオパシー協会、名古屋支部、発足その後ATスティル サザーランド オステオパシー スターディー グレープとなる。

同年、日本オステオパシーメディスン協会がフランスのアンドリュー・テイラー・スティル・アカデミーと提携し日本に初めてのヨーロッパスタイルのオステオパシーの学校を設立

同年、日本クラシカルオステオパシー学会を松澤和則、設立

2010年 日本オステオパシープロフェッショナル協会が米国ダラス・オステオパシー・スターディー・グレープと業務提携と日本国内における、靭帯性関節ストレインの教育権を得る


2012年 米国、バイオダイナミクス創始者から、山本逸二がバイオダイナミクスのスタディーグループを作る事を許される。そしてスタディーグループ内でバイオダイナミクスを教えることが許される。日本国内初

 

2013年 ATスティル サザーランド オステオパシー スタディーグループが、Dr.フルフォードのコースを初めて認定コースとして行いました。
Dr.フルフォードは生前、3人のD,O,にしか彼のワークを教えることを許しませんでした。その3人はDr.コス、Dr.ヤダバ、Dr.エシュトルースのみです。

同スタディーグループが、フレッド・ミッチェル・シニアで有名なマッスル・エナジーのコースを業界で初めてコースをスタートする。
このコースはフレッド・ミッチェル・シニアのワークをミシガン州立大学オステオパシー学部のDr.グリーンマンが受け継ぎ教えられているものである。

同年、同スタディーグループが、サザーランドの高弟のひとりで、Dr.ウェルズのワークを正式なかたちで日本に彼女の作ったスタディーグループの上級講師を招待し、コースを始める。
下肢、上肢・肋骨、脊椎・骨盤、内臓・リンパの4つのコースと、上級で頭蓋のコースで成り立っています。


2014年 日本オステオパシープロフェッショナル協会の日本トラディショナルオステオパシー大学が米国、ATSU/KCOMと提携が正式に決定

インターナショナル オステオパシー スタディー設立、ならびに、インターナショナル・カレッジ・オブ・オステオパシー・ジャパン開校

 

2015年 ATスティル サザーランド オステオパシー スタディーグループを設立

同年、米国でバイオダイナミクスのフェーズコースで、山本逸二が日本人として初、インストラクターに任命される。

同年、米国、ニューハンプシャー州にあるバイオダイナミクスのスタディーグループで、山本逸二が日本人として初、インストラクターとして任命される。

同年、10月に日本オステオパシー業界として、初めて、山本逸二がクラニアル アカデミーのメンバーとなる。

同年、日本オステオパシープロフェッショナル協会が日本トラディショナルオステオパシー大学を開校

同年、日本オステオパシープロフェッショナル協会の会長、下村彰慶、が日本人として初めて、SAAO、米国オステオパシー学生学会で講師を務める。
テーマは「オステオパスのための鍼治療」

 

2017年  2月 アトランタの、クラニアルアカデミー イントロダクトリー コース (40時間) にて、日本人として初めて、テーブルトレーナーのトレーニングに参加し、正式にクラニアルアカデミーから、ファクルティーとして認定され、OCA の資料を使用することを許可される。

 

 

 


バイオダイナミクスを学べる機関

  • トムシェーバー講習会
  • ASSOSG
  • ISO

 

クラシカルオステオパシーを学べる機関

 

  • AJOA
  • JICO
  • JACO
  • ASSOSG